1780年に描かれたモーツァルトの家族。2年前に亡くなった母は肖像画として描かれている


  • モーツァルトの最愛の妻、コンスタンツェ(1762〜1842)について
  • コンスタンツェは悪妻か・・・その1。

  • モーツァルトの妻のコンスタンツェは長い間悪妻とされてきた。実はそうではないのではないかということらしい。モーツァルトが死んだときに3000グルデンの借金があった。
    モーツァルトの年俸は800グルデンである。その数年で借金を返してしまい逆に人に貸し付けたりもしていた。
    日本では、財布のヒモは妻が握っているが、欧米では夫が握っている。モーツァルト家の財政が破綻したのはモーツァルトによるものであり、モーツァルト亡き後は彼女の才覚により経済的自立が出来た。モーツァルトが死んで、すぐにレクイエムの完成を目指し自筆譜を注文主に渡さずに立ち回った見事な出来事や皇帝に亡き夫の年金を請求したり残された自筆譜を出版社に売り渡した。〔このおかげで多くの楽譜は散逸が防げた〕こういったことからもコンスタンツェの才覚は明らかであり、コンスタンツェ悪妻説はかすんでしまう。
     
  • コンスタンツェは悪妻か・・・その2。

  • 彼女の浪費がモーツァルトの命を縮めたとか、夫の音楽家として才能を認めなかったとか、色々言われている。しかし、浪費癖はモーツァルト自身であったようだ。また、芸術家の妻で夫の才能を認めた人は少ない。モーツァルトが敬愛したハイドンの妻も夫の才能を終生認めなかったし理解しようとしなかった。
    そう言った点でコンスタンツェも極、一般的で悪妻でも何でもないと思うが・・・・。
     
  • コンスタンツェとの結婚・・・。

  • ウェーバー家には3人の娘がいて、その頃、名声が高まりつつあったモーツアルトは格好の娘たちの結婚相手に映ったに違いない。モーツァルトはもともとコンスタンツェの姉のアロイジア・ウェーバーを愛して彼女との結婚を夢見たがそれが痛ましい失恋として終る。
    ウエーバー婦人は一人でウィーンで暮らすモーツァルトの身の回りの世話を焼きながら、娘たちと親しくなる様に仕向けたに違いない。于局曲折があって結局は三女のコンスタンツェと親しくなった。まんまと婦人の策略にハマった訳である。
    また、『モーツァルトが3年以内にコンスタンツェと結婚しない場合は年に300フローリン支払う義務がある誓約書』を書かされた。しかし、モーツァルトを信じるコンスタンツェにより、後日この誓約書を破り捨てたられた。
    また更に、モーツァルトがこの婦人から結婚に際し書かされた誓約書に『ウエーバー家の借金を一部肩代わりする』というものがある。世間知らずのモーツァルトなど手玉にとるなどお手の物だったようだ。
    父、レオポルド、姉、ナンネルもこの結婚には反対であった。父との関係も一時的には危機的状況まで発展した。最終的には父が折れ1年越しの恋を実らせ1782年8月4日結婚をした。
    結婚式の立会い人は8人だけでその中に当然父の姿はなかった。モーツァルト26歳、コンスタンツェ20歳であった。
  • 1782年8月7日の手紙で

  • 『僕らが結ばれた時、妻も僕も共に泣き出してしまいました』と書いている。
    2人の間には6人の子供が生まれたが2人の男の子が成人した。貧困と彼女の病弱に悩まされながらも、陽気な家庭生活を愛していた。結婚後、彼の音楽作品が成熟し多くの傑作を生み出している以上、コンスタンツェはモーツァルトにとって良き妻であったに違いない。
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  • モーツァルトは父宛てにコンスタンツェのことをこんな風に書いている。1781年12月15日の手紙より。
  • 僕の最愛のコンスタンツェは醜くはありませんが美人とはとても言えません。彼女の美しいところはその小さな黒い瞳とすらりとした身体つきです。機知はありませんが健全な常識を持っていますから、妻として母としての務めは十分に果たすことが出来ます。決してぜいたく好きではありません。
  • 最愛のコンスタンツェも若干、尻軽のところが見え隠れする。それを心配したモーツァルトは1789年4月16日に、こんな手紙を送っている。
  • どうか寂しがらないで下さい。
  • 健康に気をつけて春の風に注意すること。
  • 一人で出歩かないこと。一番良いのは出歩かないこと。
  • 僕の愛を確信して疑わないこと。きみに手紙を書く時はいつだって愛しいきみの肖像画を前に置いています。
  • もっと、詳しい手紙を書いて下さい。
  • きみと僕の名誉に注意して行動するのは勿論だけど、さらに人がどう見るかも注意して欲しい。
  • この内容からコンスタンツェの生活・行動を心配している様子が手に取るように分る。

    コンスタンツェは決して美人ではなかったが、モーツァルトは彼女の肉体に満足していたようである。1789年5月25日の手紙にはセックスに触れた部分の記述がある。
    内容が内容なのでこのwebでは紹介しませんが、かなり露骨な表現が出てきます。ご覧になりたい方はモーツアルトの書簡集をご覧下さい。

    モーツアルトは彼女の為に幾つかのフーガを作曲しているが、全て未完に終っている。これはモーツアルトが姉、アロイジアの音楽的才能に固着する気持ちから気を引こうとしていたと思われる。コンスタンツェの音楽的才能は姉より劣り、モーツァルトの作曲への気持ちを失せさせたかもしれない。

    モーツァルトの死後、コンスタンツェはデンマークの外交官ゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセンと再婚している。ニッセンは妻の前夫、モーツァルトの資料を編纂した。

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