「ぼ・・僕、泳いでくる」
 いたたまれなくなって、之は海に向かって駆け出した。
『俺の大事な』
 史朗がそう言ったと思うだけで、之は嬉しくて叫びだしそうになった。
 小学生の時にスイミングスクールに通ったから、人並みには泳げる。之はクロールで少し沖の方まで出ると、仰向けになってうわうわと浮かんだ。
「眩しい・・」
 ギラギラ輝く太陽の光をまともに浴びて、之は目を閉じた。
「史朗ちゃん・・・・」
 物心つく前から史朗しか見てなかった。男とか女とか年齢も何もかも超越して、史朗の存在だけが之の中では絶対だった。
 今では名前を呼ぶだけで、胸がいっぱいになる。里奈と一緒にいるのを見るだけで、胸が張り裂けそうなほど悲しくなる。
「痛っ!」
 胸でなく、わき腹に刺されたような痛みを感じて、クラゲにやられたんだと思った時には、之はバランスを崩して海水を飲み込んでいた。
 慌てて体勢を立て直そうとして、今度は脚が攣ってしまった。
「うわっ! た・・・助け・・」
 もがけばもがくほど海水がどんどん口の中に流れ込んできて、之はこのまま死んでしまうのかなと思った。
「やっ・・・しろ・・・ちゃん・・・」
 死にたくないと思ったけど、之の意識はそこで途切れた。

「なんだか騒がしいわね」
 パラソルの下で日焼け止めを塗りなおしていた美春が、波打ち際で人だかりがしているのに気づいた。
「ちょっと、誰か見てきてよ」
 早苗の言葉に、里奈に貼り付かれてうんざりしていた史朗が立ち上がった。
「サメでも出たとかじゃねーの?」
 野次馬みたいでイヤだなとは思ったが、里奈の相手をしているよりはマシと、騒ぎの方へ向かった。
「何かあったんですか?」
 近くまで行って、様子を伺っていた人に尋ねた。
「誰か溺れたらしいよ」
「スゴイ美少年なんだって」
 美少年という言葉に、史朗は駆け出していた。
「之っ!?」
 人だかりをかき分けて騒ぎの中心にたどり着くと、之が砂浜に敷かれたシートの上に寝かされていて、史朗は血の気が引くのを感じた。
「之っ!」
 駆け寄って抱き起こしたが、ぐったりと力ない身体は長い間海に漬かっていた為に、ひんやりとしていた。
「アンタ、このコの関係者?」
 顔色を失くしている史朗に問いかける声があったが、耳に届いていなかった。
「今、ライフセーバー呼びに行ってるから・・・」
 呆然と之を抱きしめていた史朗だったが、野次馬のその言葉に我に返って、之の胸に耳を当てて状態を確かめた。
「生きてる・・」
 之の心臓は鼓動を刻んでいたがなんとなく弱々しく、呼吸はほとんど感じられなかった。
「ライフセーバーなんか待ってらんねぇ」
 史朗は之の首の後ろに手を差し入れて頭をのけ反らせて気道を確保すると、鼻をつまんで口をこじ開けて人工呼吸を始めた。
 キャーとかおおっとか、周りで歓声が上がっていたが、史朗は之の蘇生に必死になった。
 二度三度と繰り返し息を吹き込むうちに、ゴボッと音がして、之が飲み込んだ水を吐き出した。
「よかった・・・之。もう大丈夫だからな」
「しろ・・・ちゃ・・・」
 之の意識が戻ったことがわかると、野次馬達から拍手が起こった。
 それからしばらくしてライフセーバーが到着したけど、史朗の処置がよかったので仕事といえば、之の状態を確認してクラゲに刺されたわき腹に薬を塗って、念のためにと救急車の手配をするだけだった。

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