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「お前・・俺を騙してたのか? 数学ができないなんて、嘘っぱちじゃねえか」
 恵史は何を言われているのかわからないといった表情で、裕を見上げている。
「嘘じゃないです。僕、先輩に教えてもらったから満点が取れたんです。だって、赤点取ったりして先輩が時間を割いて教えてくださったことを無駄にしたくなかったから・・・・」
 きょとんと見上げる恵史に、裕は信じられない思いだった。
「たった1週間で、苦手を克服したってのか?」
「裕先輩がわかりやすく教えてくれたから・・・満点が取れてうれしい」
 恵史は再び裕の胸にスリスリと頬を摺り寄せた。端から見ているとユーカリにしがみつくコアラのように見えた。
「健気じゃねえか。ご褒美にキスでもしてやれよ。熊谷」
 琢磨の言葉を真に受けた恵史は、頬を染めてそっと目を閉じた。
「バッ・・バカかっ、お前はっ! 人前でンなことができる訳ないだろうがっ!」
 真赤になって怒鳴る裕に琢磨は追い討ちをかけた。
「人前じゃなきゃイイんだ? よかったね子猫ちゃん」
 裕が本格的にキレる寸前、予鈴が鳴った。恵史は残念そうに自分の教室に戻って行った。


 その日の放課後、クラブに顔を出さないといけないのに、何故かぐずぐずしているうちに、誰もいなくなってしまった教室でボーッとしていると、突然フラッシュの強い光を浴びて、裕は飛び上がった。
「裕先ぱーい。こっち向いてください」
「またお前か・・・いい加減、俺につきまとうのやめろっちゅうの」
 げんなりしている裕にも、恵史はシャッターを切っていく。
「裕先輩がクラブに来ないから、迎えに来たんですよ。怒った顔もワイルドで素敵ですけど、僕は笑ってる顔の方が好きです」
「好かれたくないって言ってるだろがっ!」
「えー・・・でも、こんなに好きになってますけど・・・」
 思わず立ちあがって怒鳴った裕に、カメラから顔を上げた恵史はニコッと笑った。
 邪気のない笑顔に、裕は全身から力が抜けるのを感じた。
『なんで俺こんなちっこいのにイイようにされてんだろ?』
 気がつくと、恵史に抱きつかれていた。
「裕先輩・・・人前じゃないから、満点のご褒美下さい・・・」
 潤んだ目で見上げられた裕は、魔法にでもかかったかのように恵史のうなじに手を滑らせて引き寄せ、長身を二つに折って、そばかすが散りばめられた白桃のような頬にキスを落とした。
「裕先輩・・・うれしい・・」
 恵史がうっとりと呟くのを聞いた裕は、ハッと我に返った。
『今、俺は何をした?』
 裕はだきついたままの恵史を振りほどくと、鞄を抱えて後ろも見ずに教室を飛び出した。


 逃げ出したのは・・・何から?
 恵史から?
 恵史のことをかわいいと思い始めてる自分の気持ちから?
 裕は自分の気持ちを知ることを拒否していた。