授業中ずっと建機の視線を痛いほど感じる。
本当は建機の視線だけじゃなく、教室にいる生徒全員がこちらを見てくれているハズなのに、建機の視線だけを特に意識してしまうのは、ずっと昔の約束に囚われている所為かもしれない。
建機はそんな約束のこと、いや、約束だけでなく、自分の存在すら覚えていなかったのに。
思わずため息をついてしまって、クラス中の視線が訝しげなものに変わったことに気づいた橘は気を取り直して授業を進めた。
放課後の化学教室。
『ダメだなぁ・・・』
山のように並べた試験管を一心不乱に洗いながら、橘はうつうつと考えていた。
心を落ち着けて考え事をするには、これが一番だったのに、今日は何本洗っても胸のもやもやが取れなかった。
「相馬先輩、来てくださったんですね」
建機の名前が聞こえたので窓の外を見やると、裏庭の大きな銀杏の木の下に人影が見えた。
「あのさ。気持ちは嬉しいんだけど、君とはつきあえない」
建機の陰になっていてよく見えないけど、下級生から貰ったラブレターの返事をしているようだ。
「好きな人・・いるんですか?」
橘がすぐ側の化学教室にいることに気づかずに、女のコが半分泣き声で訊いている。
「そんなのはいねーけど、俺、受験生だし、今はそんな気持ちになれないんだ。ごめんな」
「じゃあ・・・じゃあ、相馬先輩がそんな気持ちになれるまで待っててもいいですか?」
女のコは意外としぶとく食い下がっているようだ。小さい頃の面影が残る、眉を寄せたその表情で、建機が困っているのがわかった。
「・・・ごめん・・・」
建機がもう一度謝ると、女のコは納得したのか頷いた。
「わかりました・・・諦めますから・・だから、一度だけ・・一度でいいから・・・キスしてください・・」
女のコの必死の願いに、建機は小さなため息をひとつつくと、少し屈んで女のコの望み通りにキスをしてやった。
「―――――っ!」
驚いた拍子に手を滑らせて、床に落ちた試験管が大きな音を立てて割れた。
「きゃっ!」
女のコが走って逃げて行く。建機は振り返って、顔色をなくして呆然としている橘の姿を見つけると、窓から入ってきた。
「見てたんだ?」
返事もできずにいる橘の目の前に立つ建機は、見上げなきゃならないほど成長している。
「ごめん・・」
「どうしてセンセーが謝るんだよ? 俺らが勝手に来てあんなことをやってたんだぜ。不純異性交遊だって叱られてるのかなと思ったのに・・」
悪びれずに建機が言う。
「覗くつもりはなかったんだ。でも、たっくんが・・」
それ以上言葉を続けることができなくて、橘は俯いてしまった。
「ねぇ、センセー。なんでそんなダサいカッコしてるの?」
脈絡のない言葉に驚いて橘が顔を上げると、建機は黒ブチのメガネを取り上げた。
「なっ・・・ナニを!? うわっ・・やめっ!」
7.3に撫でつけている髪の毛を、大きな手でぐしゃぐしゃにかき回されて、橘は悲鳴を上げた。
「あぁ・・これでやっとあの写真の面影が戻ってきた」
「は?」
真っ赤に頬に血を上らせたまま、橘はキョトンとした表情になった。
「ちょっと美容院にでも行って、髪形変えた方がイイって。このメガネもだせぇから、コンタクトに変えたら?」
「い・・いや・・でも・・・」
予想外のことを言われて、橘はどう答えたらいいのか困ってしまった。
「なんだ。このメガネほとんど度が入ってねーじゃん。なんでこんなのかけてんの?」
続けざまにあれこれ言われた橘は困惑を通り越して、混乱してしまった。