橘がスーツを着替えに行っている間、建機はリビングのソファに座って、あちこちキョロキョロと見回していた。
家の外観は古かったが、中はキレイに手入れされている。華子はなかなかハイカラなおばあちゃんのようで、リビングにはクリムトの「接吻」の複製がかけられていた。
「建機ちゃん。ちょっと助けてちょうだい」
華子のSOSに、建機はキッチンに駆けつけた。
「上の棚から出して欲しいお皿があるのよ」
華子の言うままに、建機は大きな皿を取り出した。
「ありがとう、助かったわ。いい子ね、建機ちゃん」
華子は背伸びして建機の頭を撫でた。
「できたら呼ぶから、由良ちゃんとテレビでも見て待っててね」
5歳の子ども扱いされているようで、建機は苦笑しながら頷いた。
華子の心づくしの食事の後、積もる話があるからと、二人は橘の部屋に場所を移した。
ギシギシ音を立てる階段を上って、奥の洋室が橘の部屋だった。
「やっぱ、キレイに片付いてんだ?」
建機の予想通り、6畳ほどの広さの部屋は、男の部屋とは思えないほど、キッチリ片付けられていた。
しかし、勢いでここまで来たものの、建機は華子に散々子ども扱いされて、すっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「たっくん・・・・話が聞きたいって言ったよね。何を聞きたい? でも、何も覚えていないんだよね?」
部屋の真ん中に敷かれた毛足の長いラグの上に向かい合わせに座ると橘が口を開いた。
建機が頷くと、橘は困ったように微笑んだ。
「じゃあ、僕が覚えてることでいい?」
建機が再び頷いた時、華子が紅茶と手作りのクッキーをお盆に乗せて持ってきた。
「たっくんが生まれて、病院から戻ってきた日のことは、昨日のことのように覚えてるよ。
僕の母は僕を産んでからの病気の所為で、もう子どもは産めない身体になっていたから、弟のできた敦美ちゃんが羨ましかったんだ。
もっとも、彼女は最初『バイキンが感染るからダメ』って、僕に君を触らせてもくれなかったけどね。
でも、次の日には『弟なんていらないから、由良にあげる』って言われて驚いたんだけど、おばさんに聞いたところによると、おしめを替えるときに、君におしっこをひっかけられたからだそうだよ」
黙って橘の話を聞いていた建機は、甘いクッキーを食べているのに、段々と苦虫を噛み潰したような表情になっていった。
「敦美のヤツ・・・」
姉を呼び捨てにする建機を、橘は苦笑しながら見ていた。
「毎日毎日、たっくんの世話をするのが楽しかったよ。幼稚園から戻るとずっと一日眺めてた。
たっくんも僕に懐いてくれたし、可愛くて仕方なかった」
可愛かったと言われて、建機は照れた。大きな身体を居心地悪そうにもそもそと揺すった。
「かくれんぼした時だったかな・・・たっくんをどうしても見つけ出せずに、大騒ぎになったことがあったよ。もしかして、誘拐でもされたんじゃないかって、みんな青くなったんだけど、ドコにいたか覚えてないよね?」
建機がバツの悪そうな顔で頷くと、橘はくすっと笑った。
「あのね。お隣の犬小屋の中で眠ってたんだ」
「えっ!?」
橘はそのときのことを思い出したのか、肩を震わせて笑っている。
「今もいるのかな・・・当時、お隣には大きな犬がいたんだ。たっくんは、キング・・そのシェパードの名前だけど、キングを枕にしてぐっすり寝ていたんだよ。
夕方、パートから戻ってきたお隣のおばさんが、キングの散歩がてらたっくんの捜索に協力してくれることになったんだけど、散歩好きなキングが小屋から出るのを渋ったんだ。
利口なキングは自分が動けばたっくんが目を覚ましてしまうと思って、じっと動かずに我慢していたんだよ。
おばさんが何かおかしいと思って小屋を覗いて初めて、たっくんがいるのに気づいたんだ」
建機は、どうしてそんな笑い話しか出てこないんだと、また苦虫を噛み潰したような顔になった。