「叔父さん。おはようございます。俺はアメリカン、彼方はオーレでモーニングセットにしてあげて」
彼方を引き摺るようにカウンターに腰掛けた安達は、稔之に注文を出した。
「ラジャー。と言いたいところだが、今目の廻るような忙しさだ。滋、手伝ってくれ」
「ハイハイ。時間が時間だけに何かイヤな予感はしてましたよ。でも、俺の彼方が餓死しちゃイケナイんで、彼方の分を先にさせてもらいますからね」
安達はパステルピンクのボタンダウンシャツの袖を捲くると、カウンターの中に入って店名のロゴがプリントされた黒のエプロンを掛けた。
「彼方。少しだけ待っておいで。すぐにできるからね」
小さい子供に言い聞かせるように安達が言うので、彼方はまたまた膨れた。
「滋さん。僕は大丈夫だから、先にお客さんのをして下さい」
恐縮した彼方だったが、カウンターの中からおいしそうな匂いが漂っているのでグーとおなかが鳴ってしまった。
「ふむ。やっぱり彼方が優先だ」
安達は笑いながら手際よく仕事をこなしていく。彼方はぼんやりと安達の手をながめながら『きれいだな』と思った。
手タレにでもピアニストにでもなれそうな長く綺麗な安達の指が、マグカップにコーヒーと温めたミルクを注いでいる。
「はい、彼方おまたせ。熱いから火傷しないようにね。ちゃんとフーフーしてから飲むんだよ」
完全に子供扱いされているのに、安達の指にみとれていた彼方が何の反応も返さないので、安達は『オヤ?』と思った。
「彼方?」
呼びかけられて目の前で手をヒラヒラ振られた彼方は、思わず安達の手を取って握り締めた。
「綺麗な手だね・・・」
面食らったのは稔之である。
安達も目を瞠って声も出ないようだった。今回、口説くのは自分の方で、まさか髪に寝癖をつけたままのお子サマに口説かれるなんて、夢にも思っていなかったのだから。
「彼方・・・もしかして寝ぼけてる?」
握られた手もそのままに安達が訊くと、彼方は弾かれたようにスツールから飛び上がった。
「うわぁっ、僕ってば一体何をっっ?」
どうも、自覚が無いうちに口説いていたらしいが『無意識のうちにこんなことができるなんてなかなかヤルじゃないかお子サマ』と稔之は思った。
「うわーん! もう数字も記号も公式も見たくないよぅーっ!」
モーニングで朝食を済ませ安達のマンションにやって来た彼方は、さっそくスパルタでビシバシ鍛えられていた。
「そんなにかわいい顔して泣いてもダメだよ。後30分は勉強する時間だって決めたのは、彼方なんだからね」
安達の頭に2本の角が見え隠れするのは、彼方の気のせいではないのかもしれない。
「うわーん! 鬼っっ」
教えてもらっているくせに安達のことを鬼呼ばわりして、彼方は喚き散らした。
「鬼で結構。それで彼方の成績が上がるなら本望だよ。さあ。次の問題いってみようか」
「滋さぁん。もう、許して」
涙目をうるうるさせる彼方に、安達は苦笑した。
「彼方って本当に物理がキライなんだね。じゃあ、キスしてくれたら今日は勘弁して上げてもいいよ」
「えっ?」
「キ、ス、だよ。ホラ、ここに」
自分の口唇を指差して、安達はニッと笑った。
言われた意味を理解して、真っ赤になった彼方はしばらく安達を睨みつけていたが、悔しそうに口唇を噛み締めると観念したように問題集に向かった。
そして、彼方が問題を解くために俯いた瞬間、安達は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。