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「おやおや,珍しい。滋さんが獲物に逃げられるなんて」
 生徒会室と会議室の間のドアが開いて、フレームレスの眼鏡をかけた生徒が入ってきた。
「花巻・・・デバガメとは、いい趣味をしていたんだな・・」
 立ち上がってスラックスのホコリを払いながらの安達の強がりな皮肉に、シニカルな笑顔で応えて、生徒会会計で二年の花巻司(はなまきつかさ)は優雅な仕草で、シミだらけの、スプリングもイカれたソファに腰掛けた。
「失礼な。俺は滋さんに言いつけられた仕事を片付けていただけなんですから」
「仕事?」
「体育祭の資料の作成ですよ。明後日に実行委員会の召集を掛けるから、やっとけって言ったのは誰でしたっけ? ほんとに人使いが荒いんだから。でー? 人には仕事させといて、自分は美少年を口説いてたんですか? ひどいなー、まったく」
 呆れたような花巻の口調に、それでなくても最低レベルだった安達の機嫌は地獄レベルにまで下降した。
「今ならまだ「少年A」で済むよな・・・」
 安達の掠れた呟きに、花巻はすっくと立ち上がると、鞄を鷲掴みにして生徒会室を飛び出した。
「お先に失礼しまぁす」
(うへぇ、目がマジだったよ。アノ人。ちょっとからかいすぎたかな)
 安達とは中学校に入学して知り合って、ずっと弟分としてかわいがられていた花巻だったが、未だに安達のことはよくわからないでいた。
 男でも女でも、カワイイと思うとすぐ手を出していた安達は飽きっぽく、誰とも長続きしなかった。
 それなのに、誰もが安達のことを悪く言うことはなく『私は安達さんにつりあわない』とか『彼とは生きる世界が違うから』と自ら身を引いていったのだった。
(今度は何週間もつだろう?)
 花巻は、同じクラスの気の毒な編入生のことを思いやった。

「なっ、なっ、何、今の?」
 全速力で校門を飛び出し、安達が追ってこないのを確かめて、ようやく彼方は足を止めた。
「キス、されちゃったんだよな。やっぱり」
 触れ合った感触もまだ生々しく残っている口唇を手の甲で拭うと、彼方は前田に言われたことをぼんやりと思い出した。
「交通事故にあったようなもんだって? 冗談じゃない!」
 フツフツと怒りがわいてきた彼方は、口唇を噛み締めながら、山の手行きのバス停に向かった。
 シャツが引き出されたままの、乱れた服装を直すことにまで頭が廻ることはないまま。


 K市を南北に走るJRのK駅から西に徒歩10分の所に、松波学園高校はあった。
 彼方の家は学校から更に西へバスで15分程の、新興住宅地にあった。自転車通学が認められるほど遠くなく、徒歩で通うには早起きがつらいので、彼方はバス通学をしていた。
 両親が離婚したのは3年前、彼方が中学2年の夏休みだった。父が彼方を引き取り、そのまま首都圏にあった自宅に残り、母は彼方の双子の姉、遥(はるか)を引き取り、実家のあるこのK市に引っ越してきたのだった。
 そして今年、何の因果かこのK市への父の転勤が決まり、複雑な心境で彼方父子は引っ越してきたのだった。
 両親は離婚したが、彼方と姉の遥は仲がよかった。過去形ではなく現在進行形で。
 だから父の転勤が決まったことを電話で報告した時には、二人で大喜びした。
『また一緒に遊べるのね。カナ』
『うん。春休みになったらそっちに引っ越すから、それまで待っててね。ルカ』
 名前を一字省いたお互いの呼び名を、彼方はあまり好きではなかった。
 面食い同士で結婚しただけあって両親は確かに美男美女だったが、性別をクロスして似てしまった子供達には、特に男である彼方にとっては、悲劇でしかなかった。
 姉の遥は、ショートカットの髪に、すっきりとした切れ長の目も凛々しく、宝塚の男役も裸足で逃げ出しそうなほどの容姿で、松波学園とは駅を挟んで反対側にある私立白蘭女学園では、まだ2年生にもかかわらず『クイーン』の称号をもらっていた。
 星座も獅子座で性格も雄々しく『カナ』などと女の子のように呼ばれている彼方と並ぶと、遥の方がよっぽど男の子に見えた。