【僕もリックみたいに上手に弾けるようになる?】
【なるよ。その代わり、毎日イヤがらずにレッスンしなきゃならないけどね】
【リックみたいに?】
 上目遣いに見上げるとリチャードはニコッと微笑んだ。
【そう。僕みたいに毎日だよ】
【じゃあ、毎日レッスンしたら、僕もアレが弾けるようになる?】
【ん? アレって?】
 よくよく話を聞くとクリストファーが弾きたいアレとは、ドビュッシーの「月の光」だった。
【僕ね。リックがアレ弾いてるといい気持ちになるの】
【気持ちいいの?】
【うんとね。えっとね。いい夢見て寝てる気持ちみたい】
 クリストファーが言葉を捜して一生懸命説明するので、リチャードは嬉しくなった。

 リチャードの父は食品会社を経営していて、跡は兄が継ぐ予定だったので、リチャードは母親の意向でピアニストになるべく、小さな頃からレッスンしていた。
 自分のピアノが聴いてくれた人を気持ちよくさせる。
 そんなことは、今まで考えてみたこともなかった。物心つく前からピアノを弾くのが当たり前で、そのピアノも母親がそうしろと言うから弾いていたのだから。
 クリストファーの言葉はそんなリチャードに、ピアニストとして大切な何かを理解させた。
(先生が言ってたのは、こういうことだったんだ)
 ただ楽譜通りに弾きなぞるのじゃなく、聴いてくれる人が気持ちよくなってくれるようにと思いながら弾くのだと。
【クリスに教えてもらうなんてな・・・・】
 思わず洩れた言葉にクリストファーはきょとんとした。
【違うよ。リック。僕が教えてもらうんだよ】
【そうだったね】
 苦笑するリチャードにクリストファーはピンクのほっぺを膨らませたのだった。


 そして、二人きりのレッスンが始まった。
 リチャードが11、クリストファーが5つの夏のことだった。


 それから穏やかに10年近く月日は流れた。
 リチャードは第一志望の音楽大学でピアニストの卵としてレッスンに明け暮れていた。
 クリストファーはといえば、先生の教え方が良かったのか、元々才能があったのか『アレ』が弾けるようになっていた。リチャードと同じようにピアニストになりたいと、同じ先生についてレッスンに励んでいた。
 そしてそれは去年の夏休みのことだった。


【クリスはガールフレンドいる?】
 いつものようにレッスンの後、リチャードの部屋でお茶を飲んでいた時、不意に訊かれた。
【ガ・・・ガールフレンドなんて・・・・レッスンに忙しくてそんなの作ってる暇ないってば。そう言うリックはどうなのさ? 背は高くてハンサムなんだから、大学で女のコがほっとかないだろ?】
 小さい頃と同じように、クリストファーはほっぺをプーっと膨らませた。
【確かにお誘いは多いけど、俺には好きなコがいるから誰にも応えるつもりはないよ】
 真面目な顔でリチャードは言った。
【いる・・・んだ? 好きな人・・・・】
 そう呟いて、クリストファーは何故か淋しいと感じた。
(ずっとずっと傍にいたのに全然知らなかった・・・)
 もうリチャードの傍にいてはいけないような気がして、涙がこぼれ落ちそうになったので、クリストファーは慌てて立ち上がった。
【お・・・俺もう帰るね。今日は見たいテレビがあったのを思い出した・・・】
 ドアのノブに手をかけたとき、その上から大きな手のひらで包まれて、クリストファーは弾かれたように振り返った

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